2006年04月11日

其の壱 徳蔵寺

4月12日(火)天気くもり雨

やっと、親戚用の移転ハガキを作った。
引越しが昨年の12月11日だったので、
皆さんには年賀状をもって移転のお知らせをしてしまったのだが、
母方の伯父が10月に亡くなったため、
私の実家の母方方面にはハガキを出せずにいた。
その上、引越してからはバタバタしていたために、
寒中見舞いで出すつもりが、春のおたよりになってしまった。。。

明日、茅場町の植林団体事務所に退職手続きもろもろで顔を出すので、
帰りに築地の伯母のところに寄って、
移転ハガキをそのまま渡し、
遺影に使ってくれた伯父の写真を引き延ばして焼き増ししたものを、
お届けしてくる予定。

結局ゆうべ原稿が完成してメール入稿したのが朝の5時。
茅場町通いが無くなった途端に、
さっそく夜型生活に逆もどりしている自分が悲しい。
だけど、全てにおいて〆切のある仕事ばかりなのだから、
それに間に合わせるためには徹夜もいたしかたない。
早寝早起きが一番体にいいのはわかっているが、
無理して太陽と一緒に活動したら過労で倒れるかもしれない。
もの書きとは因果な稼業よ。

で午前中寝て、昼前に起き、午後に移転ハガキが完成し、
夕方から盛大に雨が降り始めたので、買い物も中止。
今夜は夫も横浜に明日未明まで出稼ぎデーなので、
夕飯も残り物処分市で済んでしまう。
ようやく、井戸巡りツアーの報告文を書く時間が到来しましたー!!!
これさえ読めば、あなたも久留里の井戸博士!を装えるかも!

4月8日(土)第1回 鶴岡塾 井戸巡りツアー(久留里〜俵田編)


徳蔵寺

★其の壱/徳蔵寺
 君津市俵田。国道410号線(久留里街道)の、JR久留里線の俵田駅入口の信号を小櫃川方面へ入って500メートル程、田圃の中の細い道を進むと、右手に徳蔵寺が見えて来る。お寺の入口の右手に、大きな黒い石碑が立っている。
 眺める者の姿をはっきりと映す、まだ新しさの残るこの碑は「上総掘記念碑」だ。碑文は以下の通り。

『碑文 佐久間 銀二書

明治中庸以前 御腹川より南部の村々は水源に乏しく 粘土質の畑に稗や粟等の雑穀を作りそれを常食としていた 又 日常の飲料水も極めて不便であったから「俵田へは嫁や婿はやれない」といわれた程貧しかった

その頃 川田村(現君津市俵田)の名主 庄太夫の子息「大村安之助」(安政五年生)は長ずるに従い このような惨めな生活を救おうと固く決意した 

当時 羽田村(現君津市箕輪)で行なわれていた竹竿で突く井戸掘の方法を鉄棒突きから樫棒突きに工夫改良して川田河原で試掘し 一応の成果を収めた

しかし標高の高い所ではその技法にては出水しなかったため より深く掘れる技術の改良に寝食を忘れて取り組み 且つ又 私財を惜しみなく投入 試行錯誤を繰り返した

明治十五年頃 竹ヒゴを継ぎ足して鉄管を吊り 鉄管に「のみ」を固定して掘削し その穴に黒粘土を水で溶かした「ネバ水」を注入 「ネバ」の孔壁を造りつつ 地中の圧力を受けた被圧滞水層まで掘削 スイコで掘屑を地上へ吐き出して自噴水を得る 独特な技法の考案開発に成功した 

この技法は後に「上総掘」といわれる井戸掘の基本技術である この卓越した技法は飯田長之助 山口竹次郎 内田波次郎 大村才次郎や波多野与吉 伊藤倉治郎 伊藤甚之助 腕木菊之助等の門弟に伝授し 各地に普及した

大村はかねての知己 千住マル六組 定兵衛らの紹介で東京へ進出 この技法を用いて数々の井戸を掘ったが その中には赤坂氷川に居を構えた維新の元老 勝海舟邸もあり 海舟から「知足勝不將」と大書した扁額を拝領 激賞されている その帰途 弟子と共に撮った記念写真在中の桐箱に 当家十一世代 井戸掘職工 大村安之助 当二十八歳 明治十八年六月 浅草に而 と自著されている 

また波多野与吉は寺沢村鳥海栄次郎宅庭先に 伊藤倉治郎 腕木菊之助 は岡村鳥海勝右エ門宅に それぞれ日五十メートル前後の井戸を掘り 毎分の水量百八十リットルを得たと伝えられ 水神の石宮に 明治十八年八月二十五日と竣工日や持主と職人の名が深く刻まれてある

その後 この井戸掘削技術は続々と輩出した職人達が受け継いで 当地区を初め 北は北海道から南は九州まで全国各地において井戸掘を行なったので 「上総掘」と呼ばれ伝播普及した 

又 この「上総掘」の原理や技術は石油 探鉱 温泉 天然ガス地質調査等のさく井から トンネルや 地盤固めの防水工事等 国の内外にわたり広範に活用されている なお近年は人力から機械さく井へと取って変わったが その源流は「上総掘」である

「水」は生命の源泉である 人類はこの天恵の水によって限りなく繁栄して来た かんがい泉と飲料水を確保するため開発された「上総掘」の技術は 海外にも伝えられ 天下万民にその恩恵を与えて 世界的な発明であると高く評価されている

よって その大業を顕彰し 「上総掘」に尽力された 先人に深甚なる感謝の意を表す記念の碑を建立し 後世に伝える次第である

君津市小櫃地区上総掘顕彰会一同 撰文 須藤 常雄』

うーん。
当日は、Hさんに丸投げとは言え、
その場を仕切らなければならなかったりして、
碑文なんてちゃんと読んでいなかったのだが、
大村安之助氏ってば、まるでジャロさんではないか。

ちなみに、鶴岡先生のお祖父様が神主をやめ、
井戸掘り職人にとらばーゆしたのが明治12年。
その師匠となったのが大村安之助、その人なのである。
ということは、お祖父様の孫弟子である鶴岡先生の弟子である我々は、
大村安之助の曾々孫弟子だということになる。


安乃助と弟子

それまで、上総掘りの様々な文献で、
芥川竜之介をホノボノさせたような細面の大村氏の写真を見て、
これが上総掘りの開祖かあ。。。と他人事だったが、
よくよく考えれば自分もその流れを組んでいた。
たまげた。

長くなってしまったが、この碑文は非常によくまとまっていて、
素人さんでもわかりやすいと思ったので、全文引用した。
写真を撮って、その紙焼きを見て書いたので、
多少誤字脱字があるかもしれないが、
おおむねこの通りなので、ぜひ熟読してほしい。

では、其の弐に続く!
posted by 絵と文屋 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 座学・会議・井戸巡り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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